#031 (2/2)
■日時: 2011/7/14
■場所: 法華経寺/葛飾ポタリング
■走行距離 20km ■TRIP TIME:約2時間
■走行ルート: 西船橋から国道14号で下総中山駅の近くの法華経寺へ。その後西船橋の
かつて葛飾と呼ばれた近辺を散策。


 境内を出ると、近くにちょっと小さい人工の池があって蓮がいっぱい咲いていた。隅のエリアに「亀と鯉の池」というエリアがあり 見てみると、亀が何十匹もいて甲羅干しをしていた。近くに寄ると泳いでいる亀が次第に私のほうに寄ってきた。餌などはもちろんないが 寄ってくるのは鯉だけじゃないんだと思った。
 本八幡に人が入ったら出られない森?があるという旨の伝説があると知ったので、どこよ?と思い調べると何のことはない、普段私がよく ランニングに走る14号に面したある一区画がそこであった。普段夜走るのであまり気づかなかったが、あらためて行ってみた。なるほど 一区画だけに鬱蒼と竹が生えている箇所があった。小さな鳥居と祠があり竹林の中には入れなくなっていた。「八幡不知藪」という名前の 場所で全国的にも有名らしい。歴史的にはこの地に入ると祟りがあると言われていたが、徳川光圀が入ったところ白髪の老人が現れ「戒め を破るとは何事かと怒りをかったという話が全国的にも有名らしい。また昔はもっと広かったらしい。市川市のホームページに明治末期の この「やぶ知らず」の写真が載っていた。白黒だが不気味だ。今はちょっとのぞいてみると多数のゴミが散乱している。白髪の老人 にゴミを捨てた輩を諫めて貰いたいもんだ。

 西船橋近辺には、写真にあるような石造が道のところどころに建っている。いくつか見た記憶があったので帰りにどの位 あるか探してみた。写真の3体の向かって石造には「元文?庚申年 10月19日」と書かれてあった。Wikipediaで調べると 元文で庚申年というのは元文五年(1740年)のことらしい。徳川吉宗の時代とのこと。そんな頃に建てられた石仏が道の真ん中 にポツンとあるのも何か不思議だ。で、更に気になったのが「庚申」という言葉。このページの一番下の写真にもあるが「庚申 塔」というのをよく見かける。以前もネットで調べたが再度確認した。「庚申」というのは「干支」の57番目。元々「干支」 とは「十支」と「十二支」を組み合わせたもので60個ある。「庚申」は「かのえさる」とも読む。「十支」の「かのえ」、 「十二支」の「さる」、両方とも金性であることから人の心が冷酷になりやすいと思われたらしい。

 「庚申待」という風習が日本古くからある。中国の道教が元になっていて、人間には三尸(さんし)の虫というのが体にいて 人の悪事を見ているのだが、庚申の年(60の倍数)の庚申の日にはその三尸が、閻魔大王にその人の悪事を伝えるといわれている。 閻魔大王にチクられるとそりゃえらいこっちゃなので、三尸が体からでないようその夜は一晩中起きているというのが、庚申待 という風習。その内15世紀頃にはこの考えが庚申信仰となり、仏教と結びつき、これらの行いを共にするグループみたいなもの 「庚申講」が作られ、その講の成果として「庚申塔」が建てられるようになったとのこと。
 写真は近くの「庚申塔」。青いペンキで落書きされている。何で平気でこういうことをするんだろうなあ。。。

 こちらは、どこかの住宅の前に残っている庚申塔。庚申塔に掘られている内容も様々である。この写真と上の写真は「青面金剛」 が彫られている。金剛とあるので密教関連の仏かと思ったら、そうではなく中国の道教から日本で独自に発展した仏であり「三尸」 を押さえる仏だそうだ。これが一番多いらしい。また更にその上の写真で肘つきをしている仏さんは「如意輪観音像」。何でこの 観音さんが彫られているのかは知らない。
 もう一つの特徴としては「猿」が彫られているものがあるということ。この猿はやはり「申」という文字からきているのかと思 ったが、どうも「青面金剛」の神使が「猿」だったからという理由らしい。

 では神使が「猿」になったのは何故か?これはこの「庚申信仰」を広めたのが、天台宗で、天台宗の守護神「山王権現」の神使 が「猿」だったからである。で、閻魔大王にチクらないよう、見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)が彫られている、 らしい。まあ他にも諸説はあるようだがややこしい話だし、こじつけも多い。  「青面金剛」はまあ理由は分かったが、如意輪観音像とか、大日如来とか密教系の仏様も多い。その仏さんの持つ能力と かが、「三尸」を押さえる能力に繋がったものなんだろうかと思った。で、神道では「猿田彦大神」が彫られている。これは 名前に猿がついているからか!?と思ったのだが、そうではなく「道祖神」として結び付けられたらしい。「庚申信仰」は江戸時 代になると三尸どころか、悪霊退散まで~ということもあり、境の神様である「道祖神」にまで結びついたらしい。 。こじつけもここまで来ると良く分からなくなってしまう。

 この写真には「馬頭観音」と彫られている。馬頭観音像は、昔は旅とかするには馬が必須で、馬が死んだ場所とかに「供養塔」とい う意味で作られるようになったとのことである。この場所でも馬が死んだんだろうか。今でもお供えが時々置かれている。  この馬頭観音が彫られた庚申塔ってあるのかなと思いググって見ると、あった。数的には少ないらしいが。こんな石造があると、 一見すると庚申塔なのか供養塔なのか分からんだろうなあと思った。

 何故かこの辺りは庚申塔が多い。またもや、如意輪観音像。顔がちょっと崩れてつるつるのようだが背面の文字はしっかりほられ ている。どう読むか分からないが、10月19日と記載されているのは分かる。

 かなりしっかりした大きい庚申塔。まだまだ写真で撮ったものもあったがきりがないので、主だったものを今回掲載した。 今回は近所だけ回ったが、もっと足を伸ばせば色々見つけることができると思った。また見つけたときには写真に収めようと思う。

Bluecat MainMTB Touring Report Main

当ホームページはInternetExplorerを基にして制作されています。このホームページに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。
(C) Copyright 2008 bluecat All rights reserved