#034 (1/3)
■日時: 2025/8/25
■場所: 千葉県太平洋戦争戦跡巡り/千葉公園・千葉縣護國神社ツーリング
■走行距離: 76.4km ■TRIP TIME:7時間7分
■走行ルート: 行田公園から、中山競馬場に行き、その後365号を通って検見川送信所へ。その後千葉公園、千葉縣護國神社に行く。再び戻る時に滝不動近くの海軍七勇士殉難之碑を観る。
その後帰宅

Bianchiでのツーリングは実に4年ぶり。これまでは神社・仏閣、峠等をめぐることが中心だったが、もう近場で有名な神社等はある程度行った。 なので、今後は太平洋戦争の遺跡をめぐろうかと思い、再度ツーリングを企画した。

ナビも前回新しく購入したが、まだ使いこなせていないが今回やっと大体使いこなせるようになった。

今回は自宅から近くの行田公園からスタート。しかし暑い。今年は異常気象ということだったが、朝出発時は29℃だった。
こちらにはいきなり戦跡がある。海軍の無線基地があったのだ。 無線電信所は大正4年に設置され、当初はとても大きなもので、性能は当時世界でもトップクラスだったそうだ。当時船橋は市になる前だったが「日本の口」として初めて世界地図に載ったとのこと。


無線塔は、関東大震災時の通信手段としても使われたが、太平洋戦争時に発信された「ニイタカヤマノボレ1208」が一番歴史に残るところだろう。真珠湾攻撃を実行せよとのことで昭和16年12月2日午後5時30分に発信された。 無線塔は昭和46年に解体。行田公園に記念碑だけが残る。
記念碑の下には銅板で当時のことが記載されている。

記念碑(後ろからの写真)
銅板

この記念碑の周りに何か遺跡のようなものはないか探してみたが特に見当たらなかった。

自分が住んでいる近くでまさか、太平洋戦争でも重要な遺跡の一つがあるとはって感じ。感慨深い。
随分前から知ってはいたが知った時は、正直「そんな重要な遺跡なんだ」って感動した。

行田公園の周りには軍の境界標石もあるらしい。ちょっと今回はみれなかったが、別の日に確認したいと思う。

次に向かったのが中山競馬場近く。ここにも戦跡の跡がある。
ちょうど中山競馬場の裏にひっそりとあるのだが、「馬頭観音の碑」である。


中山競馬場にある馬頭観音は、競走馬のものは競馬場内にあるとのこと。で、じゃあ競馬場の外にあるのは?

そもそも中山競馬場は1928年(昭和3年)に開設された。よって戦時中にも既に存在していた。しかし戦時中は競馬なんぞやってられんってことから、1943年に競馬は一時停止、 1944年(昭和19年)に陸軍軍医学校中山出張所になった。そこでは血清ワクチンを作っていたとのこと。(Wikipediaより)。

じゃあ馬はというと、終戦直前に数百頭の馬が「ガス壊疽」の血清を作るために、生きたまますべての血を抜かれた。
ガス壊疽は、戦場で多くみられた筋肉などが壊死する細菌感染症の一種で、「本土決戦に備え10万リットルのガス壊疽血清を製造せよ」という命令が下ったとのことだ。※

※参照文献:水野文也 『生きた馬の血を全部抜く作業』・・終戦の日を前に語り継ぎたいこと

何とも痛ましい話だ。
この馬頭観音の石碑はこの作業の犠牲になった馬達のものなんだなって思った。
ただ写真の右の新しいものが昭和49年建立。左が明治、真ん中が大正時代建立のもの。それ以外の周りのものはもっと古そう。 よって写真右のものが当該の慰霊碑なのかなと思った。ちなみに1946年(昭和21年)に競馬場として返却され競馬が再開されたとのこと。

敷地内には小さな馬頭観音の石碑も多くある
一番小さな馬頭観音の石碑


中山競馬場を後に14号に向かおうとした時、1匹の白い犬がトコトコ歩いていた。
周りに人はいない。野良犬かと思ったが首輪もついている。手を出して「おいでおいで。」とするとちゃんと来て頭を撫ででやると気持ちよさげ。

「こっち、こっち~。」って呼んでいるよう!

どうも放し飼いの様子。撫でてあげると再びトコトコと歩き出す。後ろをついていくと、まるで案内するかのように一緒のスピードで歩いてくれる。

どこに行くのかなと思ったら少し行ったところで民家の門に入っていった。 「そこが君のおうちなんだ」って思った。まあ放し飼いなのか単に勝手に外にでただけなのか分からないが、人に危害とか与える心配ないのかなってちょっと気になった。
(まあ、あの様子だと犬から危害を加えるってことはなさそうな犬だけど)


14号に出る前に無線電信所への案内標識がある。同じ敷地内には庚申塔もある。写真では見づらいが「無線電信所道」と掘られている。 また写真には撮っていないが行田公園の通信所への案内が掘られている。

同じ敷地内の庚申塔

ちなみに庚申塔は、「寛政12」と掘られている。1800年は江戸時代。そんな古くからある石碑なんだと驚いた。
庚申塔については、自分のツーリングレポ「法華経寺・葛飾ポタリング」に記載している。

その後、ららぽーと方面に向かい南船橋駅方面から海岸通りにでて千葉方面に向かう。南船橋駅付近は、ここ数年程通ってもいなかったが久々に通るとマンション等が多く立ち並んで区画が整理されているのがわかった。

丁度、京葉線「南船橋駅」に沿った道路。以前はあまり整備されていなかった。
突き当りを右に曲がり千葉方面へ

イオンの手前辺りで14号方面に入り、検見川送電所に向かった。
ここでナビを観ていたが、そろそろ着くだろうと思ったがナビ上にPOIがでてこない。設定したはずなので表示されないことはないはずと思っていたが、途中で明らかに通り越したとわかった。 やむを得ずスマホで検索しその表示にしたがった。
ここでPOIがちゃんと表示されていないのがわかった。原因は分からないが、操作ミスだろうと思った。


ネットで事前に調べていたが現在は立ち入りができなくなっているという。まあそれでも近場までは見れるだろうと思っていった。送電所付近についたが、確かに送電所はみえるが、周りは完全に立ち入りができないようネットが張り巡らされていた。 しかも建物面積よりかなり広い所でネットが張り巡らされているので、近くに寄ることができない。

工事現場から撮影
ネット越しに撮影
拡大写真

またずっと放置されているので地面からも雑草が生えまくっていて建物の下方はちゃんと分からなかった。
ネットで調べると以前は近くまで寄って観ることも出来たようだ。 今は窓は完全に塞がれて、管理がうまくできていないのか、そもそも管理をやめてしまったのか。非常に残念な状態であると思った。

丁度工事の車が入って工事をしていたので、そこはネットが取り外されていたのでそこから写真を撮った。写真は、そこから望遠で撮った写真。


次に向かったのは千葉公園。こちらにも幾らか戦跡が残っている。
千葉公園付近は、旧陸軍鉄道連隊[1908年(明治41年)設置]が置かれていた場所で演習場跡が多い。 鉄道連隊が明治41年(1908年)、旧千葉町都賀村(現椿森)と津田沼町に設置され、大正7年(1918年)の改編により千葉町に鉄道第一連隊、津田沼町に第二連隊が設置されたとのこと。※2

※2 参照文献:千葉市のWebサイト

まず最初に観たのが、「荒木山」。公園の中でも小高くなっており、当時は連隊のラッパ手訓練が行われていた。
記念碑のようなものはなく台座のレリーフがあるだけ。周りにはベンチがあった。

当時はラッパ山と言われていたが、殉職した、「荒木克業(あらきかつなり)」大尉を悼む同連隊の兵達により銅像が建立されたとのこと。

台座のレリーフ

荒木克業大尉は満州事変の後に起ったホロンバイル事件で殉死された。
1932年満州事変時、満州国駐留軍が当時の満州国軍の人事配置に不満をもち在留邦人を楯にホロンバイル独立宣言をし、日本に宣戦布告を行った。
この時に関東軍がこれらの駐留軍の撃退と人質解放のため、列車追撃隊を編成。その中で荒木は小隊長として先頭にたった。
しかし道中敵の放った石塊を載せた車両を回避すべく脱線器をつけ、そのチェックをしていたところに脱線した貨車の石塊が当たり亡くなった。 大尉は仲間を先に逃がし自分は脱線器の再点検を引き受けていたところだった。

大尉は亡くなったが追撃隊は無事人質を解放した。死後英雄としてたたえられたとのこと。

時間的に暑かったが、千葉公園内は木々がありそれにより暑さは和らいでいた。次に向かったのが「忠霊塔」。 公園内を自転車走っていると小さいプールがあり、子供達が遊んでいた。