#033 (2/3)
■日時: 2025/8/25
■場所: 千葉県太平洋戦争戦跡巡り/千葉公園・千葉縣護國神社ツーリング
■走行距離: 76.4km ■TRIP TIME:7時間7分
■走行ルート: 行田公園から、中山競馬場に行き、その後365号を通って検見川送信所へ。その後千葉公園、千葉縣護國神社に行く。再び戻る時に滝不動近くの海軍七勇士殉難之碑を観る。
その後帰宅


平日でしかもこの暑さなので塔の周りは誰もいなかった。昼を過ぎたところで、一番暑かった。ネットで見ると34℃だ。
そりゃまあ誰も来ないか~。
この塔は日清・日露戦争からの太平洋戦争までの間に戦争で亡くなった方の慰霊碑である。 かなり大きな記念碑で、終戦時未完成であったものを修復したもの。戦歿者57248柱が祀られている。
この「忠霊塔」の敷地にはいくつか碑がありそうであったが、中に入ることはできなかった。

「忠霊塔」の前は広い芝生になっている。木々の下にはいくつか「碑」があった。また特に説明はなかったが、何やら戦跡らしきものもあるようだった。

「忠霊塔」の前の広い芝生1
「忠霊塔」の前の広い芝生2
「忠霊塔」の前の広い芝生3


「忠霊塔」の横にひっそりとあったのが、「忠魂」と掘られた碑。観に行ってみると柵があったが壊れていて中に入ることができた。 柵の門に「鉄道隊創立80周年記念」と書かれおり、昭和50年に建立とあった。狭い敷地には、鉄道隊のレリーフがあった。
このレリーフが、「荒木大尉」が正に「脱線器」を取付けているところのようだ。(写真左)

「忠魂」の碑。この位置だと見過ごしがちかな。
「忠魂」と大きく掘られている。

さて敷地には、よく分からない石造物もあった。歴史的に貴重なものかもしれないが、詳細は不明。

よく分からない石造物



その隣に「日中戦士鎮魂碑」があった。こちらは、4256部隊(歩兵212聯隊)の方々に対する碑であった。(写真右)

石碑によると、同部隊は、昭和14年佐倉の第57連隊で第32師団の部隊として編成。軍旗をさずかり山東省魯西道の治安警備に当たったとのこと。しかし昭和19年壕北ハルマヘラで、 軍旗を奉焼。つまり玉砕したってことだ。
その後数百名の戦死者を輩出し、部隊は壊滅状態となったとのこと。「梁山事件」と呼ばれるものだが、詳細を調べても出てこなかった。
この事件では日中共々に多数の戦死者を出したことから、両国戦没者の怒れる魂が鎮まる様建立されたとのことである。

その隣には「陸軍少年飛行兵慰霊の碑」という碑があった。

陸軍少年飛行兵慰霊の碑

こちらは昭和20年頃に戦士した少年飛行兵に対する碑で、元陸軍少年飛行兵だった生存者の方々が建立したものだった。
当時少年飛行兵というのは、日本陸軍の航空兵科現役下士官となるため、10代の男子志願者から選抜されて陸軍の航空関係諸学校で教育を受けた人達をいうそうだ。 10代の頃から飛行訓練をうけていたっていうのは本当凄いく凄惨な時代だ。

全然関係ない話だが、自分はガンダム好きだ。ファースト以降色んなガンダムが作られてきたが、新しくなればなるほど主人公が若年化、男性から女性等変化している。 主人公がオッサンばかりだとやはり流行らないだろうからだが、幾ら何でも10代のパイロットってねーだろー、とあまり最近のガンダムは好きではない。

だが時代が違うとは言え、こういう時代があったということから、少年兵が主人公ってのもまあ不思議ではない気もした。


更にその隣には、「慰霊碑」と書かれた石碑があった。
これは、1900年位に起った北清事変以来、北支に駐留した支那駐屯軍の伝統を元に昭和13年3月中国北京において編成された軍隊。 その兵員は主に千葉県人を主体とし、東京を含めた複数の県出身者により構成されていた。

編成後は後北京保定附近の警備を行い、徐州会戦、武漢攻略戦に参加した。昭和19年に中国戦線に出動、京漢作戦、湘桂作戦に参加、更に広東省に進出し三南作戦江西作戦を闘い、北上中、南昌南方地において終戦を迎えた。 この間将兵は炎熱、酷寒に耐え忍んだという。

この中国の地で亡くなった2300余柱はいまだに中国の土地に眠っておりこの方々を霊を慰めるための碑とのことだ。

その隣には、女性の像が立っていた。こちらは「シベリア強制抑留死没者千葉県慰霊塔」である。第二次大戦後もソ連に捕虜としてとらえられた人達がシベリアの過酷な労働条件の中強制的に働かされ多くの方が、その地で亡くなった。 これらの方々を慰める碑だ。

女性の像

これらの碑はそれぞれ別々の団体が中心となり働きかけ建てたもの。
このような団体が無数と言っていい程日本にはありそれぞれで現在も歴史として残していこうとされているのだなと思った。
ただそれぞれの団体でも高齢化が進んでいるのではないかと思うと、心苦しい感じがした。


さて次は、「架橋演習用橋脚」というものだ。正直ものを観てもただのコンクリの壁にしか見えない。

横に案内版があったので、読むと、鉄道第一連隊が「橋が破壊された場合の復元訓練」に使っていたとのこと。

何となくめちゃくちゃニッチな訓練をしていたんだなって印象だった。「鉄道なので橋が壊れると、向こうに渡れないけど、かといってどうしようもないじゃん。」と思った。

しかし「どうしようもない」で済ませられない状況だったのだろう。

人が荷物を運んで回り道して向こう側に行ったとしても、列車は向こう側にもっていけない。そうするとそれ以降、鉄道で運ぶ距離を人が運ぶしかなくなる。

そんなことできないってことだろう。確かにそうだ。そうなると橋を復旧するしかないということななんだろう。
しかし訓練して復旧できるもんなのかは疑問だ。


公園内には池がある。周りの木も綺麗に整理され、結構絵になる感じだなと思った。しかし暑い。

休息所があり、そこでソフトクリーム等も売っていた。美味しそうだったが、言ったな食べてしまうと思いっきり休憩しそうなので、やめた。

休息所
美味しそうなソフトクリーム

あと公園には2カ所戦跡があるときいていたので、池の周りを自転車を押しながら歩いて探した。するとあった。「ウィンチ台」である。

ウインチとは、滑車やドラムなどでワイヤーを巻き取ることで、重量物の吊り上げ、吊り下げ、けん引、横引きなどをする機械のこと。
なので、その機械が設置された台ということだろう。

ウィンチ台?どこに何か設置されていたのかちょっと分からない。
同じ場所にいくつか石造があった。これらもウィンチで使われたものだろうか
池の側道にあった

残りは「鉄道第一連隊トンネル工事演習用トンネル」である。ウィンチ台に引き続き公園内を散策していたが、それらしきものはない。
別の場所かなと思ったら公園の側道にあった。中ではなかったので中々見つからなかった。

こちらも名称の通りトンネル工事をするための演習用のトンネルとのこと。
これでどのように練習していたのかは分からないが、実際本当のトンネルの大きさなので、かなりの存在感だ。

千葉都市モノレールの「千葉公園駅」の丁度目の前にある
記念撮影(自分)
記念撮影(Bianchi)
裏側から撮ってみました

さて続いては、「千葉縣護國神社」だ。
令和4年にご遷座されたとのことだ。今回行くのはもちろん新しい方。 前の神社は昭和42年に建てられたが老朽化が進み、自然災害の影響を受けたり、御遺族・戦友・ 崇敬者の高齢化も進みバリアフリー化なども含め新しくすることになったとのことだ。